Bible and me

たまたま知った聖書の言葉が、誰かの仕事や生活にも助けになりますように。

今こそ


なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(コリントの信徒への手紙二/ 06章 02節)
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今日は、1月4日。
一部では石の日と盛り上がっているようだ。

今日は、仕事はじめの人たちが多いようで、
急に様々なメッセージが舞い込んでくる。
しばらくはあいさつ回りも多いのだと想うけど、
個人としては、便乗したごろあわせで
「意志の日」
何かをきめるのであれば、

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。


そうすれば与えられる。そうすれば見つかる。

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(マタイによる福音書/ 07章 07節)


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全知全能の神さまは、すでにこちらの思いをわかっていて、実はいつも、想う以上の最も良いものをくださることを聞いてきた。
そして、祈っているときにはもうすでに手にしているものだとも。


あたまでは、わかっていますよ。あたまでは。

神さま。
僕にもお年玉をください。


極めて良かった

神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。(創世記1章31節)

 
子どもたちが小さな頃造った工作や描いた絵、
作品としての仕上がりはどれもいびつてイマイチなのだけど、
そこも含めて、極めて良い。大切なものだ。ずいぶんやむなく捨ててきたけど。
子どもたち自身がせっかくつくったものをぞんざいに扱ってるのを見ると、なんだか哀しい気持ちにもなる。
 
この世の中にできているものすべて、創造主の想いからはじまったものであったとするならば、
どんなに残念な形であろうと、状態であろうと、
創造主は「極めて良い」
と思っているに違いない。
 
自分自身が、毎日のように痛いミスを繰り返し、まるで不完全で、最も身近な人たちから疎まれようが、すべての始まりをつくった創造主だけからは、極めて良しとされて愛されているのだと思い込む。そうはいっても辛いときは辛いけど。
 
 

Bible and me

学問を大切にする者は、また、自らも語ったり書いたりして、一般の人々の役に立ちうる人でなければならない。

(シラ書〔集会の書〕/ 序章 05‐06節)

細かい決め事は抜きにして、
自分が聖書から学んだこと。
自分自身の記録に残すだけではなく

なにか取り組んでいる人や、
さまざまな悩みの中にある人、
壁にぶつかっている人も、

ふとしたきっかけで出くわした聖書の言葉の諸々を
通じて、すこしでも、軽やかになってほしい。


そう想って
2016年始まりの日、
気持ちを新たに、つづってみることにした。

ところが、ところが、
いざ、書き始めると、
どの場所から拾って良いか。

迷う。

はじまりというのは
形がとても難しい。

そんなときに、ちょっとした祈りをしながら、
手元のページをめくってみる。

聖職者でもないし、聖書学者でもないから
本当にその言葉の解釈が、
わかっているかどうかもわからない。
そこに学びがあったなら、
同じように感じてくれる人も
必ずいるはず。

どうか、いつか、
この記録が、その言葉を待っている人たちに届きますように。