Bible and me

たまたま知った聖書の言葉が、誰かの仕事や生活にも助けになりますように。

太陽の賛歌

今日は夏至だ。

聖書とは違うけど、
ときおり紐解く祈りがある。

その祈りは太陽の歌とか太陽の賛歌と呼ばれる。

太陽の歌といえば、雨音薫?(もう知っている人もすくないか。)

ではなくて、
アッシジ聖フランシスコという有名人が晩年に作ったといわれる祈りだ。


この数日は、この祈りとともに、
創造主が作った、天地万物(人間も含む)を考えてみたいと想う。


<アシジの聖フランシスコの祈り>

いと高い、全能の、善い主よ、
  賛美と栄光と誉れと、
  すべての祝福は
  あなたのものです。

いと高いお方よ、
  このすべては、あなただけのものです。
  だれも、あなたの御名を
  呼ぶにふさわしくありません。

私の主よ、あなたは称えられますように
  すべての、あなたの造られたものと共に
  太陽は昼であり、
  あなたは太陽で
  私たちを照らされます。

太陽は美しく、
  偉大な光彩を放って輝き、
  いと高いお方よ、
  あなたの似姿を宿しています。

私の主よ、あなたは称えられますように
  姉妹である月と星のために
  あなたは、月と星を
  天に明るく、貴く、
  美しく創られました。

私の主よ、あなたは称えられますように
  兄弟である風のために。
  また、空気と雲と晴天と
  あらゆる天候のために
  あなたは、これらによって、
  御自分の造られたものを
  扶け養われます。

私の主よ、あなたは称えられますように
  姉妹である水のために
  水は、有益で謙遜、
  貴く、純潔です。

私の主よ、あなたは称えられますように
  兄弟である火のために。
  あなたは、火で
  夜を照らされます。
  火は美しく、快活で、
  たくましく、力があります。

私の主よ、あなたは称えられますように
  私たちの姉妹である
  母なる大地のために。
  大地は、私たちを養い、治め、
  さまざまの実と
  色とりどりの草花を生み出します。

私の主よ、あなたは称えられますように
  あなたへの愛のゆえに赦し
  病いと苦難を
  堪え忍ぶ人々のために。

平和な心で堪え忍ぶ人々は、
  幸いです。
  その人たちは、
  いと高いお方よ、あなたから
  栄冠を受けるからです。

私の主よ、あなたは称えられますように
  私たちの姉妹である
  肉体の死のために。
  生きている者はだれも、
  死から逃れることができません。

大罪のうちに死ぬ者は、
  不幸です。
  あなたの、いと聖なる御旨のうちにいる人々は、
  幸いです。
  第二の死が、その人々を
  そこなうことは、ないからです。

私の主をほめ、称えなさい。
  主に感謝し、
  深くへりくだって、主に仕えなさい。

(訳:石井健吾)
引用元:http://www.pauline.or.jp/prayingtime/vari_taiyo.php


アシジの聖フランシスコという人は、
もう、それはもう、大聖人で有名人なのだけど、
青春時代にかなりの放蕩時代をすごしたとも言われている。

その部分、あんまり資料が残っていないのだけど、
その話を聞いたときに、大好きな小説、
鬼平犯科帳を思い出した。

受苦日に思う

「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

 

イエスだって、死にたくなかったんだな?

キリスト教について、
さまざまな憶測、評価、分析があるけど、
聖書には、時折人間らしい表現があって、
こういう記事が残っている
結構、好きだ。

この福音書、改めて読んでみると、ちょっと気になる文がつづいている。

「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」

聖人のゾンビ・・・

ところで、昨日、洗足式という礼拝に足を運んだ。
最後の晩餐の時に、イエスが弟子たちの足をあらった。ということを記念する礼拝。
当時、足をあらうのは奴隷の仕事とされている。
イエスが足をあらうというのは、
「人々に仕えたイエス」を象徴する出来事で、
そのとき、
「私があなた方を愛したようにあなた方も互いに愛し合いなさい。」
という言葉を聞く。

でも、ひねくれ者の僕は、こういう言葉に引っかかる。

『ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 』

ペトロ、調子に乗りすぎ。
愛していたんだよな。イエスを。





 


体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

(コリントの信徒への手紙一/ 12章 14節ー20節)

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聖書のなかで、大好きな場所。

仕事を通じて
「優秀な人材がいない」
と相談されることが多い。

どこかで書いたのかもしれないけど、
優秀って
非常に定義があいまいで、
よくよくひも解くと、
「自分のいうことをあれこれ言わずとも聞いてくれる」
ということに近い気がする。

経営者の中には、
「自分が従業員の生活を守るため、
こういうこともやっていて、こんなに苦労もしているのに、
従業員はそんなことも知らないし、そんなことも考えられない。」
なんていう人も少なくない。
でも、そんなことは難しいのだ。
経営者には経営者の役割がある。
リーダーにはリーダーの役割があり、
若者には若者の役割がある。
ベテランにはベテランの果たすべき仕事がある。

聖書では、上の引用の後に、この言葉が続く

「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」 

それぞれが、
全体の一つ一つ部分として、役割を分担し、そして、
ともに苦しみ、ともに喜ぶ。

どんなチームにいるときもそんなチームを目指していきたいと常におもっている。






思いを高く超えて

天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ書/ 55章 09節)
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先日、ある研修があって、
そこで、社会人にこの4月からなる若者に講師が言った。

「社会っていうのは、とにかく理不尽」

社会に出る前にアドバイスを。
と、いう話だったかと思う。

深く納得をした。
とにかく、
朝令暮改当たり前の世界が
実際に存在していて、
そのことで振り回されないように。

そういう主旨だったかと思う。

世の中なんて本当に思い通りにならない。
ただ、どうだろう。
もし、それが、
自分の思い、願いよりはるかに超えた
大きなものにあるとしたら。

最近、やっと
すこしずつそうおもえるようになった。
自分を責めることなく、他人を責めることなく、
状況に恨み言をいうのではなく。
そして、逆に超えた思いを自分の言い訳にするのではなく、

はるかに超えた思いに、耳を傾けてみる。

何も聞こえないことの方が多いのだけど・・・。

試練を受けた人

事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。(ヘブライ人への手紙2章18節)

 
〜〜
毎週水曜日、祈りの夕べというものを主催している。
 
そこで読んだ一節。
 
人生において、辛くてしんどかった時、これを他人から試練だと言われてもどうにもピンとこない事がある。
 
どうしても、
 
「あなたには、わからないよ」
 
という思いが奥底から持ち上がってくる。
 
だけど、
似たような経験をした人が、ただただ横にいるだけで、言葉はなくとも、
 
「この人に、いまの苦しい想いを預けたい」
 
と。
 
「自分はいつまでも不幸だ。」と思い続け、孤独な人がいる一方で、
自分が受けた試練を、乗り越えてきた経験を、いま、まさに直面している人たちの、役に立てたいと思う人もいる。
 
どうせならこんなとるに足らない自分も、何かの役に立ちたい。
そのための試練であれば、乗り越える事が出来る日が来るまで前向きに向き合っていたい。
 
そう思いつつ、神さまっておちゃめで意地悪だな。
早く楽にしてくれたら良いのに。
と強く思う。
 
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舌は火

同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。

しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
 
(ヤコブの手紙3章5〜7節)
 
〜〜〜〜
ヤコブさんが、手紙の中でわざわざ舌は火だと書いたのはきっと初期の教会も、うわさ話やある事ない事で苦労したんだろうなと、想像する。
 
自分に振り返ってみると、
ごたぶんにもれず
随分と言わなくてもいい事を言い、聞かなくてもいい事を聞き他人を傷つけ、傷つけられてきた気がする。
 
沈黙は金なりという言葉もある通り、古今東西、昔から舌にまつわるトラブルは尽きない。
どういう時に喋りすぎてしまうのか?
考えてみると、
良くも悪くも自分を(自分の言いたいこと)をもっともっと伝えたいときだ。
自分に対する承認が足りない(およそ足りないと感じるのは自分だけだけど)と喋りすぎる。
 
そんなときは、
全部神さまがわかってくれている。見ててくれている。
そう思うだけで
多分
その舌が
余計な活動をやめるはず…
 
今年は、自分の火消しをしなくて済むように過ごしたい。
 
 
 

クリスマスから12日

          イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 (マタイによる福音書/ 02章 1-2節)

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          1月6日は、クリスマスから12日目だそうだ。この日を、僕が通う聖公会では顕現日と呼ぶらしい。

 

          イエスの存在が世界に知られた初めての日。を記念する日で大切な日であるとのことだ。

小さな頃からなんどもなんども聞かされてきたこの博士の訪問シーンについて当初はまったく意味がわからなかったのだけれど最近はすこしわかってきた気がする。

自分たちの文化(信仰)と違う文化(信仰)との和解を示唆しているらしい。

家庭の中で身近だったキリスト教だけど、学校の中での印象は、

 歴史で学んだ十字軍や魔女狩り、ローマ帝国との結びつき。決して良いイメージを抱けなかった。

憲法で保障された信教の自由があるのに幼児洗礼までされて、なんと居心地が悪いのだ。と、毒づいていた。

でも、キリスト教の始まりの始まりが、東方の三博士にあるとするならば、この部分の物語から感じるエッセンス

何か、ちがった価値観を尊重しつつ受け入れたり、良いものをすばらしいものをただ知りたくなったり、知ったことを広めたりそんなふうに受け継がれていくものが信仰というのなら

 こういう信仰を持つことは悪くない。